ある侍女の告白
『もう決めたの。7月7日が過ぎたらお父さまに頼んでみるわ。
…あぁでも7月7日まで1ヶ月もある。
うんざりだわ。明日にでもお願いしてみようかしら』
わたしが、彦星さまと引き裂かれた織姫さまのお世話をするようになって
何年経ったでしょう。
泣き暮らしていた織姫さまが徐々にお元気になられたのには理由があります。
布を織ることも、お食事も身が入らず、毎日ぼんやりなさっていた
織姫さまは、ある日何らかのキッカケで空の下をご覧になったのです。
『ねぇ、聞いて聞いて。またとんでもないモノを見ちゃったの。
下の世界にいろんなかたちの建物がまとまりなく並んでいるでしょ。
その中のひとつにいつもビュンビュン動いている塊がドーンってぶつかったの。
人が大勢集まって大変な騒ぎよ』
おそらく、一軒のコンビニエンスストアに車が突っ込んだのでしょう。
よく聞く話です。
下の世界は、織姫さまの目に、あらゆる刺激に満ち溢れ、華やかで
非常に魅力的に映るようでございます。
無理もありません。
幼い頃から、静かで穏やかでなんの刺激もなく、
彦星さまと引き裂かれたこと以外、つらい目に遭ったこともない
天上人であられるのですから
ご興味を持たれすぎたせいでしょうか。
下の世界に転生し、そこで暮らしてみたい、
度々そうおっしゃるようになりました。
直接は存じ上げませんが
天上に住む神々の中には、ごく稀に下の世界に興味を持たれ、
望んで転生なさる方もいらっしゃると聞きます。
転生を繰り返す風変わりな神さまもおられるそうです。
『姫さま、何度も申し上げましたが、
下界にはつらいことも多うございます。
体験したわたしが申すのですから間違いありません。
つらすぎたため、姫さまにお話しできないこともあります。
さまざまな痛み、悲しみ、妬み、裏切り、劣等感、貧困、
分かり合えない、ダルさ…孤独…
そして老いるということ。
ごく稀に感動する場面があるとは言え、
好んで苦しい世界に転生されなくてもよいかと存じます。
そのお美しいお姿そのままで転生できるかどうかも分かりません。
今一度、お考え直しくださいませ』
言いだしたら聞かない姫さまに何を申しても無駄だと分かっていながら
形だけ再度お引き留めしましたが、もはや時間の問題でしょう。
つらさ、痛さ、悲しみなどお話ししても姫さまに理解できるわけがありません。
ましてや、劣等感など分かりっこありません。
初めて姫さまのご希望を伺った日は仰天しましたが、
(わざわざ苦労したい人がいるのか!ここで美しく穏やかに漂っていられる幸せを捨てて!)
いまは、姫さまのことなど、どうでもよくなっております。
むしろ、
(行くのならさっさと行けばよい。
ご自分の目で見てご自分の身体で体験しないと分からないことばかりだから。
後悔して嘆いて泣いて人を妬めばよいのだ。
絶望の意味を思い知ればよいのだ)
彦星さまの存在が、わたしを意地悪な気持ちに駆り立てるのです。
下界での体験を終え、空に上がったわたしのような魂には
さまざまな感情が残っています。さまざまな感情を覚えています。
空に上がると、最初の入り口で下界の記憶は綺麗さっぱり消されるのですが、
わたしの場合は記憶消しに失敗したようです。
自己申告なので黙っていました。
姫さまに仕える身としては、それは時にはつらく苦しい残酷なことでした。
誰にも言えませんが、お気楽でお美しく何不自由ない織姫さまに妬みがあります。
いつの頃からか、年に一度だけ訪れる彦星さまに惹かれていく自分がいました。
それほどの思惑があったわけではありませんが、
下の世界を覗き見ることができる扉を
最初にわざと細目に開けておいたのは、わたしでございます。
いまは人間の寿命もかなり延びたようです。
姫さまが60年も70年もお留守にされる間、
わたしに大きなチャンスが巡ってくるに違いありません。