※ すべてフィクションです
「はい!カーーット!」
監督の合図にハッと我に返った。
ささくれ立った畳
一口だけのコンロ
剥がれ落ちた壁紙を隠すためのポスターがペラっと剥がれかけている
西日が眩しい
窓からの眺めは、あの頃と変わらない
〜〜〜※〜〜〜※〜〜〜※〜〜〜※〜〜〜
(日が落ちると、まだ寒さ厳しいな…)
年がら年中、下駄箱の上に置きっぱなしにしてある、
焦げ茶のマフラーをクルッと巻いてドアを開けた。
活動時間がここに住む他の住人と違うせいか、
滅多に誰の姿も目にしたことがない。
こんな時間に珍しく通路に1人の女性が佇んでいる。
いちばん端の部屋のドアの前で、大きな風呂敷包みを手に困ったように佇んでいる。
長いこと会っていないオカンと見間違えてギクリとした。
誰とも関わりたくないので、黙って通り過ぎようとした。
(関わるな!ほっとけ)
自分の内から声がする
分かってる
言われなくても分かってる
それなのに気づいたら声を掛けていた
(ばか!黙れ!ほっとけ)
「どうかされたんですか?この部屋の方は、まだお帰りじゃないと思いますが」
「こっち方面に来る用事があったから
序でにと思って連絡もせずに来ちゃった。娘にこれだけ渡したくてね。
部屋の前に置いといていいものかしら?」
大きな風呂敷包みと紙袋がふたつ。
「構わないと思いますが、もしよかったらお預かりしましょうか」
黙れ!ほっとけ!という声を無視して、もう1人の自分が勝手に答える。
自分のことで精一杯なんだ。他人のことなど一切関わらないと決めているのに。
長いこと会っていないオカンを思いだしたからかもしれない。
「いいんですか!助かります!今日中に帰らなきゃいけないんで助かります。
ありがとうございます!」
何の疑いもなく、オレに風呂敷包みを預けようとする。
中身は何か知らないが、もっと荒んでいた頃の自分だったら、
全部自分のものにしてしまったに違いない。
こんな嬉しそうな顔を見たら、ちゃんと渡すしかないだろーが!
だから、関わるな!と忠告したのに!
重荷を下ろした誰かのオカンは、カンカンカンカンと足取り軽く、
階段を降りていった。
次の日は土曜日だった。
ごみ捨て場で数回見かけただけで、ロクに挨拶を交わしたこともない
住人が住む部屋のインターホンを鳴らした。
(あの母ちゃんから連絡が行ってますように。たくさん喋るのは苦手だ)
「はーい」
「突然すみません。201の者です。お宅のお母さんから荷物預かっています。
開けなくていいです。ドアの前に置いときます」
人と話すのは苦手だ
インターホン越しでも、それだけ話しただけで動悸がした。
(まぁいい、任務は終えた。これに懲りてもう2度と誰にも関わるもんか)
その日はバイトのない日だった。
何をするでもなくぐずぐずするうちに、窓の外が暗くなってきた。
(めし作るの面倒だな。ラーメンでも食いにいくか)
ジャンパーを引っ掛けて、ドアを開けたら
正面に突っ立っている女性と目が合う形になって、
驚きのあまりひっくり返るところだった。
「なに?アンタだれ?何してんの?人の部屋の前で?」
「ごめんなさい。いまちょうど、インターホン鳴らそうとしてたんです。
荷物預かってくださってありがとうございました。
ほんのお裾分けです」
差し出された紙袋の中は食べるものらしい
部屋に戻って確認したら、笹団子とちらし寿司が入っていた
すこし不揃いの蓮根、人参、油揚げ、ご飯が見えないくらいいっぱい敷き詰められた錦糸卵。
そして大きな焼き鮭の切り身
…オカンの作るちらし寿司に似ている
東京の養成所に入って、俳優を目指したいというオレに猛反対していたオカンが
最後の夜に作ってくれた晩飯はちらし寿司だった。
…そうだった
最後の晩飯はちらし寿司だった。
オカンはどんな思いで作ってくれたんだろう
黙って食べたちらし寿司
(あの子、自分の分はちゃんとあるんだろうか)
不思議に思いながら、本当に久しぶりに人の温もりが感じられるご飯を堪能した
あの時と同じように黙って食べた。
この頃は、アルバイトに明け暮れるだけで自分を見失っていた
自信もプライドも削げ落ち、誰にも会いたくない日々だった
諦めて帰ろうと思っていた
この日を境にじわじわと気持ちが上がったのは、ちらし寿司のお陰かもしれない。
良い日もわるい日も、諦めわるく3年を費やした
神の奇跡が起きたのは3年目の春だった
実力というより、神の気まぐれだったのだろう
ドラマ撮影の舞台というこんな形で、再びこの場所に戻ってくるとは…
その後、言葉を交わすこともなく、
いつの間にか引っ越して行ったいちばん端の部屋の女性のこと、
どん底だったオレを救ってくれた、ちらし寿司のことなどが唐突に思いだされ、
暫し放心状態になってしまった。
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「いやーよかったよ!桐山ちゃん。ここで逃げ隠れしてた
逃亡犯に寄せる心情がよく表れてたよ。
滲み出る哀しみが身体全体から伝わってくる!すばらしい」
(当たり前だ。ここは本当にオレが住んでいたアパートだ。
心情を寄せたのは、主にちらし寿司だがな)
収入も社会的ステータスも格段に上がったが、
あの夜以上のちらし寿司には、まだお目にかかっていない
あの頃と今とどちらが幸せなのか分からない
分からなくていい
分からないままでいい
そう思いながら、
ひとつだけ落ちかけている、ブロック塀の表札プレートをそっと撫でた
画像はすべてお借りしました
その日、インスタでフォローしている方が、いつものように更新されました。
その方の写真からは、ポツンとした哀しみや郷愁を感じますが、
その日の写真は特に心に刺さり、あれこれ想像を巡らせてしまいました。
事情を話し、ここに掲載する許可をいただきました。
快くご承諾いただき、ありがとうございます。
拙い文章なので、素敵な写真に申し訳なく思います
話の内容は、すべてフィクションです